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about01
    室見川の最下流左岸に広がり、姪浜駅を中心に西区の行政及び交通上の中心をなしている。 天神・博多から続く市街地の西の端である。この西側には長垂山・叶岳・高祖山があり、今宿や伊都、糸島市地域と姪浜地域とを隔てる。公称町名としては姪の浜(めいのはま)と姪浜駅南がある。 1976年(昭和51年)に住居表示により地区の中心部分が姪の浜1丁目~6丁目とされ、同時に豊浜1~3丁目、愛宕1~4丁目も分立した。その後、大町団地、小戸、下山門、石丸、内浜、福重、愛宕浜、姪浜駅南、愛宕南の各町(大町団地以外は丁目で分かれる)が順次分立している。

about02
    唐津街道は、北九州市の大里から唐津までの街道であるが、木屋瀬から唐津までの98キロとする説もある。 1635年(寛永12年)参勤交代制の確立によって宿場などを一定の間隔で設けたり、道幅を広げたりして各地の街道は整備された。現代で言えばハイウエーである。 姪浜宿は宿場として人や物資の集散地として栄え、その面影を残す100年以上経つ町家作りの家や、土蔵が残っており、福岡市のなかでは貴重な町並みが一番沢山残っている所である。 街道沿いには藩の御茶屋跡(本州では本陣という)があり、黒田藩主の別荘としてまた参勤交代時の唐津藩主や幕府の要人や長崎奉行の宿泊に当てられた。 代々御茶屋守を務めたのは濱家で現在の御当主は65代目で住居は天明8年(1788年)の棟札がある。石城戸商店は宿場の木戸の跡であり、昭和30年代まで槍や刀が残っていた。 三宗酒店が昭和47年にビルに改築したとき、弥生時代中期の石剣や甕棺(かめかん)が発掘され、新町遺跡として板付埋蔵文化センターに収蔵されている。 道沿いの家々は、ただの商店街にみえるが昔ながらの町家も多く、 一歩中に入ると巨大な梁や大黒柱に目を見張り、階段箪笥や舟箪笥など珍しい古民具が日常に使われています。 また多くの家の軒には一年中注連純(しめなわ)が張ってあり、神社、お寺、小祠、道祖神が多く祭られているのも姪浜の信仰の厚さを物語っている。 昔ながらの生活の風習が濃く残っているのも宿場の歴史を背負った町だからと考える。

    文責 大貫弘子

about03
    唐津藩 参勤交代のため大名行列が往復した。
    黒田藩 長崎警備のため、寛永18年(1641)から明治元年(1868)迄佐賀藩と1年交代で任務に当たるため継続して通行した。 また、御茶屋(別荘)が姪浜にあった。 (浜家奥様談) 大応国師が姪浜に着かれた時お助けしたのは、浜家と浦家です。(1267兎の伝説)御茶屋は、黒田のお殿様の別荘だから旅館ではないので誰でもは泊めない。 林大学と坂崎出羽守が泊まったことは、書き残されています。 お殿様が清遊にこられる時馬を繋いだ所が屋号「うまや」柴戸さん宅です。 道中着を着替えられた所が津村さん宅の土蔵辺りです。
    飯尾宗祇 (1421-1502室町時代の連歌師)文明12年(1480)筑紫紀行 姪浜文吉に宿す。
    豊臣秀吉 (1630-1714儒学者)筑前続風土記 養生訓など著書多数
    司馬江漢 (1738-1818浮世絵師銅版画家)西遊日記薯天明8年(1788)1月12日平戸より帰途、深江より(馬)-前原-(駕篭)-今宿唐津屋利兵衛方泊 姪浜に着き福岡に行く。
    亀井南冥 (1743-1814儒学者医者)姪浜に生まれる 早船家石橋家は姻戚
    広瀬淡窓 (1728-1856儒学者)1809年大村藩主に講義の帰路通った。南冥、昭陽の弟子。
    伊能忠敬 (1745-1818)1800年より全国の測量を始める。1812年姪浜測量。姪浜宿に泊まっている。
    奥村玉蘭 (1761-1828画家)筑前名所図会10巻 南冥、昭陽の弟子。